風信 Prologue
P.K.ディックの小説読んでたら、
gadgets gadgets という言葉が頭のなかで
カビのように増殖してきた…
僕のなかで言葉が乱反射する…
言葉が風に舞い続ける…
●言葉を知ることは世界を知ることだと錯覚していた
きっと若いときは理解力よりも体力で本を読んでいたのだろう
意識が望むようにしか、世界をも、自分自身をも了解していなかったのだろう
足元を見ないようにアンバランスというバランスを観念の網の上でとり続けて…
いま、言葉と言葉の隙間から、意識の裂け目から、
叫んでも木魂も還ってこない様な無意識の深淵が
どうしようもなく見えてくる…
●人間を生物というフィルターをかけた機械だと考えると面白い。
朝、目がさめて身体スィッチが入ると身体各部のBOOT状況をチェックして人間システムが作動、たとえば腰や膝などの関節部位に支障があるだけでシステムが不完全作動してしまい、不機嫌というシステムの不安定、ひいては他者システムとのネットワーク不全を引き起こす。身体のメンテナンス関数の実行値は、「いま在ること」を決定する本質的な要素だとおもう。
身体性のメンテナンス、そう、ニンゲンって限りなく機械に近い、「意識性が云々~」ってのは、単に若さ・思考の思い上がりでしかないね。機械という自覚のない機械、それがニンゲン?・・・紅葉した自然を見て気持ちが和む、ヘンテコリンな機械?・・・生物からも、機械からも逸脱したニンゲンは、どこにいくんだろう?例えば秋の紅葉、そのいろんな色が織り成すハーモニーに感動感動するとき、どこからかヒトの歩む方向性が間違ってきたんじゃないかと想わせる…
● ある陶芸家の言葉より
とくに物質にはそれぞれ異なった性質というものがありますが、その係わり合いのなかで、おそらく個性といわれているものが生じては消え、消えては生じている。
だけどその係わり合いからはずれて、私はこういう個性を持っていますよ、あるいはその個性を通してこのように世界を見ました、そしてその世界を造形のなかにこう置き換えました、といいえるような図式、いつも自分という絶対者がいる構造のなかでは、もの造りは進んでいかないような気がします。
土にどこまで語らせるかということ自体が、同時に自分が語っていることでもあるという、そういう関わり。
● 思考はこころを断片化する
デフラグがボクにも必要だ!
● 張りかへた障子のなかの一人
近代って影をつくらない文化
つくらせない文化じゃないかと思う
「明」と「影」を同居させない文化
違いを「差異」として受容するのではなく
「違和」として排斥する文化
影は言葉のなかに沈殿するしかない
分解できないヘドロのように…
言葉は硬くなってぶつかり合い
お互いを粉砕するだけ…
関係性が希薄になり
言葉が他者へ向かわない
言葉の方向性がうまくつかめない
自分のなかの別空間に気づいたとき
気づいた空間の大きさに応じて
いままでの空間の一部が
失われたのかもしれない
切り取られた空間の断層が見える
精神の地層がズタズタになっている
これじゃ地殻変動がよく起こるはずだ
部屋のなかが奇妙に明るくなった
自分の影さえ見い出せないような空間では
自我も複数の自己を許容できない
もっと「かくれんぼ」できる空間が必要だ
ひっそり隠れていれるような
癒しの無意識空間がないんだ
影ができるようにリフォームしなければ…
● なんであっても
なにがあっても
死ねば死にきりだろう
板になった木は自分がかって木であったことを忘れているだろう
以前自分が人間であったことも忘れてしまいたいもんだ
いろんな形をした石ころだらけの広場
ぽかぽか陽だまり、ひんやりとした石畳
ねっころがりたい、時間を感じられる石ころに囲まれて
そこは自由な猫の自由な日向ぼっこ、生活空間でもあるらしい
やがて、どんな想いが、意味がその石にあったのか
そこが何であったかもわからないような空間になればそれがベスト
時間の流れのなかで醸成分解され、自然の構成成分となる
それが自然時間だろう
地球は大きなエネルギー再生・変換装置だから
地球にとって黴菌のようだった人間だってもとに戻してくれるんだ。
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