風信 13



かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や  (山頭火)

from 2007 note

2月26日下血して救急車で病院へ。どうやら胃潰瘍らしい。
異の痛みやムカムカ感も何もなし

前日、とんかつ屋を出た途端に天と地がひっくり返ったような

地球が一瞬のうちに一回転したような感じがした

入院するはめに、緊急輸血して手術…

3月26日、4週間ぶりに娑婆の空気、退院。ちょっと動いただけで、へとへと、なんか変だよ、こんなはずじゃないのに?
こんな病気も初心者、入院も初心者、退院も初体験。退院後約3週間なれどまだ生活リハビリ中・・・。パソコン教室も、昨日3人授業したので、今日は一人にし、明日はまた3人にして、チェックチェック・・・やっと休憩入れて3時間ぐらいはパソコンを自分の手足の延長のように使えるようになった。まったく亀さんの歩みだね、あせらずいこう!のそり、のそり・・・1ヶ月かけて失った体力はなかなか元に戻らない。

病院の出口と日常生活空間は地続きじゃなかったんだね。考えてみれば病院内元気印の生活なんて、ベッドを中心に半径30メートルぐらいしか有効範囲が無いんだよね。
その保護環境の中でベッド生活、4週間、環境設定が日常生活とぜんぜん違うことに気がつかなかったよ!そういえば、10分以上継続的に歩いたことが無いんだもんね、そのまま日常性に着地できるわけが無いよ

それぞれの場所に、それぞれの世間があるんだね。生活のバロメーターは、うんち、しっこ、おなら!自らの調子のよさを確認するためにあちこちで音がする。不安を払拭するために便をみつめ多角的に観察する。おならもいい音だ、今日は1-7(大-小)、便いい黄色だ。尿も問題なし。でも、これって身体の基本だよね。

輸血と点滴で空腹感も感じない日々。箸のカシャカシャという音。音がからだを刺激する。
温かい食事のイメージが口いっぱいに拡がった。やっぱり口から食べれるって素晴らしいよ。
流動食にさえ感動したよ。これも基本中の基本だね。
この病院内世間を自分の日常の中に取り込みつつ、自分の体を調整するしかないのだろう。
『食』、その行為自体にこだわりが出来た気がする。

ぶらぶら散歩していて、やっと道端にも視線を向ける余裕ができたら、季節はいきなり冬から春になっていた。周囲をみわたせば草々のみずみずしい緑や桜や花、色あざやかで、生き生きしていて、春の真っ最中を体で感じることができるようになりました。惜しむらくは地面からの春の蠕動を、訪れの余韻を感じられなかったこと…

何で胃潰瘍?なんで?今まで食もふくめて身体性に無関心だったぶん、身体性から逆襲を受けたのかもしれない。さらに疲れに追い討ちをかけたのはなんだろう?ストレスの原因にはインドもあるかもしれない?インドを見るって事は自分を剥き出しで見るってことだもんね。それで、ピロリ菌の攻勢にに負けたのかもしれない。おかげで人並みに入院を体験できました。日常から遮断された生活は、もうこんな読書三昧、音楽三昧の生活はできないだろうなと思えるほど、変に快適でした・・・惜しい気さえするぐらい。

出たら、美味しいフグくって、ひれ酒のんで・・・美味しいカレー食って…
と思っていたのに…禁止令!げっ、一体なんだろう、「胃に優しい食事」って。
広島風お好み焼き、瀬戸内の煮魚が目に浮かぶんだ

振り返ってみると実際問題として、『食』に、『身体』にあっけないくらい関心が無かった。
ドアの内側の暗闇のなかに、どこか自己放棄している自分が居たんだろう。まず当然の帰結として消化器官が悲鳴をあげた。

身体に感謝して食べてくれ と胃が言った。
身体と相談して食べてくれ と胃が言った。
『生』『在る』を噛みしめてくれと身体が言った。
同じ繰り返しはもう嫌だと身体は思っている。

身体の言うこと、その自然性を無視してはいけないんだよね。
もう、自分の意思や言葉で自分の身体を制御することは駄目なんだよ。
傷ついた猫は自分がよしとするまで
ひたすらじっとうずくまっている…
猫には学ぶことがいっぱい。
いつも近くにいても、いつも見てても、気付かないことはいっぱいある・・・。

ビールが1本、冷蔵庫の中にある。開ける度に目に入るが、ぜんぜん飲もうという欲望が起きない。回復のバロメータかな?

土日は牛になってグズグズ生活してるよ。そうしないと人間に戻れない魔法にかかってるみたいだからからね。寝牛は元気の素


ずっと不思議に思っていた
なんで郵便の『便』と大便・小便の『便』は読みも違うのに同じ文字なんだろうと…

病気して初めて解った
大便・小便って身体からの自分自身に対する『便り』だったんだ
綿々と言葉のなかに蓄積されたものって深いな

いままでずっとその『便り』を破り捨ててきたもんだから
『痛み』という『速達』も愛想を尽かしてこなくなったのに違いないね

さしずめいまの僕の身体は
ずぼずぼ穴のあいた地雷原…
地下に不発弾を抱え込んだまま構築されたガタの来た家…

でもいいや、俺、小さいときからオモチャとか
解体して組み替えなおすの大好きだったもん
気ままに地雷や不発弾をひとつひとつ解体していこう


病後の風信

ガンジス川の流れのようにゆったり回復しています
梅雨、むしむしして暑かったり寒かったり大変です

でも雨のひとつひとつがいのちの素なんだと思うとすんなり状況を受け入れられます
人間だって単なる移動できる木・花に過ぎないもんね
すこしひいた感じで受動的な位置に自分をおくと世界が違って見えてきます

心身ともにお気をつけください
ツケは必ずやってきます

そう、 意識に拘束されながらも身体性はいつも話しかけてくれている
素直な耳さえあれば、いつでも聞けるよ


梅雨時の景色は好きです

雨に濡れた草花や樹木のいきいきした緑、水滴も弾んでキラキラ輝いています
その一粒一粒が夏を乗り切るためのいのちの素、全身で雨を受け止めながら気持ちよく深呼吸しています
ゆったりと歩いているとその息づかいが感じられます
いつしか「歩く」ぐらいの速さが、ヒトには丁度いいんじゃないかと思うようになりました
道端の花・樹木と自分の時間性・身体性が同調するのだろうか、自分も自然の一部だと肌感覚で感じられます
「歩く」ぐらいの速度から逸脱すると、移動の速度も思考の速度もその本来の自然性を失って自家中毒していくのじゃないかと思ったりします

うまく言葉が探せないけど
「身近なところ」と「遠いところ」って薄い浸透膜ひとつで繋がっているような感じがします
外部的な相互距離の問題ではなく、重層化された「層」の内部の問題、濃度差の問題じゃないのかと…
別の言い方すれば、動的な動物的生の根底には、静的な植物的生があるんじゃないかと・・・
身近な日常性の拡がり(繋がり)が見えないとき
非日常を求めるしかないのだろう・・・
世界はとなりで息づいているのに
となりの世界を凍らせていたり
一番身近な自分が置き去りにされていたり・・・

あるがままの自分がいま、ここに在る

    
雨の日はゆっくり歩く
草や木たちも雨をあるがままに受け入れ
時間もゆったりと流れている

朝、傘の乱立みたいに開いていた赤い花も
夕方には一斉にその傘を閉じている

今日を明日に預けることもしない
今日を過去に書き込むこともしない
今を咲いている

自然な時間の流れを身体で感じ取れないほど観念にがんじがらめにされてきた
蜘蛛の巣のように記憶(経験)の網が張り巡らされ、蟹が自分の姿に似せて穴を掘るように、意識が望むようにしか世界を、自分自身をも了解できなくなっていた

蜘蛛の巣の上でアンバランスになりながらもバランスをとり続ける・・・
揺れるたびに、言葉と言葉の隙間から、意識の裂け目から、 叫んでも木魂さえ還ってこない様な自己の深淵が どうしようもなく見えてくる・・・

 

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