風信 08
若し疑わしく覚え候はゞ、
その所業終り候処を爾等眼を開いて看よ…
from 2006 note
●出会いの数だけ世界がある
その何倍もの路が世界に通じている
受け入れがたい現実が存在するとき
交差する路をもたないパラレルワールドとして世界は再構成されてきた
そこでは、いくつ世界があろうと
Aの世界にはAしか存在しない
Bの世界にはBしか存在しない
どこまでいっても平行なんだ
AとBの世界の交差から
Cの世界が形成されることなど無いんだ
AとBの世界のあいだを
風が吹き抜けることもないんだ
そこでは、たとえどの世界が破壊されようと
自分自身の断片はどこにでも存在するわけだ
手垢にまみれた悲しい自己防衛機能…
でもそれは自分ではない
個々の現実をいくら積み重ねても
それはひとつの世界にはならない
通じる道が無いから…
交差し合う路という心臓機能が停止してるから…
もう自分の王国をいくつも創ることはない
ごちゃ混ぜだけどひとつの世界でいい
どんな道を通ってもいい
どんな道ができてもいい
地面を感じれるところが自分の道だから
そう、地面を感じれるところならば
その「在る」ところがすべて僕の世界
吹き抜ける風がそれぞれの想いを運んでくれるんだ
●想いが深まるほど孤独が深まる
孤独が深まるほど想いが深まる
想いが無いとき孤独は無い
独居があるだけ
想いが無いとき他者は無い
他者という概念があるだけ
他者という存在の重さは無い
想いがあるなら
孤独が深くなっても
そこは氷で凍てついた世界ではない
他者と他者のあいだに介在するプラーナのようなもの
暖かさのある生命の息のようなものが感じられる
針やお灸でからだが内側から
じんわりとほのかに温まっていく感じ
直接的な熱伝導とはちがった暖かさ…
化学反応式からはみだす世界
論理からはみ出す世界
セルフイメージが解体される
でもいいんだ
僕のポケットには想いという磁石が
ちゃんと入っている
振り向いたとき「いとおしさ」という道が続いていれば
どこで倒れても文句はないよ
●サハラ砂漠で
真っ青な空が赤い大地の地平線に張りついている
何億年か前に海の底だった大地を歩いている
オアシスの周辺に張り付いたカスバ
赤茶けたアースカラーを基調にした中間色パステルの世界
クレーの水彩画を見てるみたいだ
360度四方、赤茶けた瓦礫の世界
微かな緑は苔状、荊状、海草状のサボテンばかり
妙にこころ穏やか
僕の精神風土にマッチしている
寝転んでみる
雲ひとつない真っ青な空が降りてくる
真っ青な空が身体のなかに入ってくる
涸れ果てた井戸の行列が山から続いている
何層にも朽ち果てたカスバ
建設途中で放棄された家屋
みんなもとの土に戻ってゆく
砂がそよ風のように流れていく
漣がそよいでいる砂漠は海
波のまにまに世界が流動する
絶海の孤島のような遊牧民のテント
「いのち」がむきだしで在る・・・
身包み剥がされていくみたい
この心地よさはいったい何なのだろう
やっと自分の心象風景のなかに佇むことができたみたい
●どの変で自分自身と折り合いをつければいいのか・・・
羅針盤の針が安定しない未知の海を手漕ぎのボートで漂流しているようなものだもんね
まさに「旅」はその象徴ですね
もともと常民的な生活時間・空間以外の非日常性はハレ的な異質な空間。
危険とも紙一重的な何でもあり状況で、その陰陽ごちゃ混ぜになっていて
何が起こっても不思議じゃない時間空間のなかで人は活性化する。
日常性のなかで沈殿していくもの、逸脱していくものを
非日常性のなかで消費して日常性にまた復帰していく循環構造。
ちょっと視点を変えて日常性からスライドすれば
みんな胸を弾ませてる好奇心旺盛な少年少女。
この多重な世界・構造は素敵だと思う。
その世界では老いも若いもないでしょう…
●いくらコトバを溜め込んでも
コトバを積み上げていっても
その総和は「現実」にはならない
その総和は「いのち」にはならない
コトバで「いのち」を掴もうとしてきた…
コトバで「想い」を掴もうととしてきた…
大切に感じるだけでいいのかもしれない
掴もうとするから指の隙間から零れ落ちるんだ
コトバは悲しいほど不自由だ
コトバは悲しいほど傷つける
そんな時は砂漠に行こう
そこは瞬間的に【コトバ】を無化してくれる圧倒的な【場】だ
なんにもない赤茶けた瓦礫と砂の世界が
コトバにならないもの
目には見えないものを教えてくれる
佇むしかないことを…