風信 12



てふてふうらからおもてへひらひら  (山頭火)

from 2007 note

in India 

●オールドデリー
死骸の様に横たわっている人
全裸に近い姿で立ち続けている人
身体を洗っている人 洗濯してる人 小便してる人
それらのあいだを器用に泳ぎぬけて遊ぶ子どもたち
いざりながら物乞いする人
無視する人
さりげなく喜捨する人
バクチに興じる人
大きな樹の祠に手を合わせている人

人人人…人人人…
野良犬犬犬 野良牛牛牛牛 野良猿
うんち うんち 野良猫 野良猿
カラス ネズミ 残飯 動物の死骸

路上にすべてがある
路上に生活があふれている
路上に剥き出しの生がある

●アーグラー・カント駅
ノラ牛が威張って駅前駐車場に屯している
象のような大きな足首をした男の子が足を引きずってくる
足を切断した子が台車に乗っていざってくる
日本的な哀れみを売り物にするような屈折感、卑屈さは
所詮甘えの構造に過ぎないと思える
階層社会で生きていくことのバイタリティ生活力に圧倒される

●アグラ
ここはひたすらタージマハール
美しさに圧倒される
でも、その不気味なほどの美しい対象性は
人を受容する温かみよりは人を拒絶する冷たさを感じる
人類が滅びてもタージマハールだけは
美しくたたずんでいる様な意思を感じる
「私が人間の美の象徴だ」と…
「生」ではなく「死」に対する想いの継続性に関して、
完成まで20年近くかかった歳月に風化されない情念とかあるの?
それよりも王は建築美に囚われていた人じゃないかと思う
円形のくぼみをプリズム的にちょっとずつ角度を変えて
深みやまろやかさを出していく構成など
いつのまにか想いを超えて技術が一人歩きをはじめ、
どんどん深みにはまり込んでいった職人性を感じる
そのカッティング・結合の技術なども含めてとても1600年代のものとは思えない

●ベナレス
沐浴してる仲間の写真を撮っていたら
棒をもった管理人面したやつが怒鳴りながらやってきた
金出せといってカメラを突然取り上げる
「No!」といいながら突き飛ばし気味にカメラを奪い返したので
ちょっと険悪な雰囲気に・・・
周りのインド人が「he is crazy」無視しろといってくれる
2~3分後にはあっけらかんとして何も問題は無かったようにこちらを見て笑っている
なんや、これは!拍子抜け、ダメもとのパフォーマンス?
これがインド流の駆け引きなのかな?

沐浴しているガートの近くで
黄色い布に包まれた人間がジリジリと焼かれていた
犬にかじられてもまだ肉が若干ついている人骨が転がっている
人間だからって特別じゃない
牛、犬、サル、からす、ネズミ・・・みな同じ生命
川辺に放り出されていた人骨
そう犬に食われたっていいぐらい自然なことなんだ
また近くではガンジスの水でクリーニング屋が平らな石に服をたたきつけて洗濯している

自分自身だけでなく他者をも呪縛・拘束していく観念の累々たる体系
そんな何千年ものあいだに命に刻み込まれた人間の想いや歴史をすべて飲み込んでガンジスは流れてきた
よくもいままで人間の毒素でおなかを壊さないもんだと感心する
もうお前たち人間のことなんか知るかと背を向けられてもおかしくないのに・・・
ガンジスの懐の広さに手を合わせたくなった

●サールナート
喧騒+ゴチャゴチャ+無秩序のインド空間のなかに突如あらわれた異次元的な静寂空間
寝転ぶと、青い空が、ゆったり浮かぶ白い雲、吹きぬける風がそこにあった
この空はネパールにつながっていると感じた

●ムガールサライ駅
共同体は異物をその体内から生み出し、絶えず排除することによって自らを維持していく
インドはあまりにも階層化されすぎてしまっていて、違和をそのまま放置するしかないのだろう放置された場所から、路上からむき出しの生活が始まる
階層が離れるほど無視し、似たような階層の人がさりげなく喜捨していく…
そんな場所では介護や福祉という言葉は存在しえなくなる
そんなコトバは排除を合理化するもの、それを補完するものでしかないのだから・・・

電車が9時間以上遅れて僕たちも駅前で移動できない旅行者=難民になった
カメラがコミュニケーションツールになった
被写体であったいかつい顔のリキシャのおじさんたちが逆に撮ることを要求してくる
俺も、俺も、こんな感じで撮ってくれと自ら状況を演出する
顔が遊び始めた
家族を連れてくる人もいる
路上生活者の子どもたちもお金をせびる「仕事」を忘れて遊び始めた
逆にボクは需要に応えるため路上労働者としてセッセと折り鶴を作成する羽目に・・・
ビニール袋の中に丸めたビニール袋を何個も詰め込んだ「ボール」でキャッチボール
ボールが軽いぶん肩にかかる負担が大きい
子どもってエンドレスなんだと思った
子どもと遊ぶ、世の中のお父さんご苦労様といいたくなった
遊び疲れてバスにもぐりこんで寝てたら、なにやら外が騒々しい
広場がデイサービスとなって遊びリテーションが始まっていた
インド人もびっくり!
なんて夜だ

「旅」はそこにあるものをたどることだけど、
ムガールサライ駅では「旅」はなくなったけれど、なにもないところから遊びが生まれた、この遅れた9時間がいちばん濃い内容になり、楽しかった。

●コルカタ
「遅れ」という非日常を日常のなかに取り込んで「よくあること」に変換することに慣れた。「遅れ」は儲けものなんだ、有効に使わなきゃ~

●旅ってなんだろうと改めて思った
1.自身の日常とは異なる文化・生活空間に出会うこと
2.異なる文化・生活空間で異なる自分に出会うこと
インドの旅は自分自身が揺さぶられる旅であった…

インドの剥き出しの生き様は
自分自身のいままでの生のなかで
隠していた自分を
見るまいとしていた自分を
現実のなかに引きずり出し
どうするんだ、どうするんだと問いかけてくる
剥き出しの自分自身と逃げずに対面すること

デリーから成田へたつ日、おなかもその日の朝からゆるめになり、
空港のレストランでインド最後の晩餐をしてると
動くのも億劫なほど身体を重く感じた。
両眼は自然に閉じようとしている・・・
インドから離れるにつれてだんだん身体も軽くなり、
おなかの調子も成田のトイレではほとんど普通だった。
インドを通して自分と対面させられ続づけた疲れだったんだと思う。

●インドの無秩序的現実はコンピュータにたとえれば、
各階層のてんで勝手なプログラムが無制御的に作動している壊れれているシステムだけど
各階層の回転率の違いで軸が揺らいでいるこの独楽はいつまで回るんだろうか
紙一重のところで支えられてるシステムだと思う・・・

一般的には秩序からはみ出すものは排除されるが
違和は違和として、そのまま剥き出しの形でそこに投げ出されていく
3000年にわたる階層社会が吸収力を失いつつあるのだろう…
階層が離れるほど無視し、似たような階層の人がさりげなく喜捨していく…
各層の回転速度の違う重層的な独楽はいつまで回り続けるんだろう…
それぞれがそれぞれ以外の階級を無視しあって成立している階層社会

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