風信 07
腰かける岩を覚えてゐる (山頭火)
from 2005 note
●もどり道を歩いてるんだろうか?
いろんなことを選び
いろんなことが起こった
いろんなことが視えなかった
いろんなことを忘れた
いろんなことを思い出した
いろんなことが分からなかった
いろんなことを知り
いろんなことを見落とした
いろんなことを知らなかった
いま、ある自分、その過去を
いまに繰り込んでいるとは思えない
どう考えたってヒトも歴史も
教訓化しながら蓄積してるとは思えない
でもいいじゃない
生きいきとした想いを持ってることがすべて
生きいきとした想いを生きることがすべて
だってもう、つらいことは経験してんだから
いやなことも経験してんだから
こころから楽しいことも経験してんだから
かけがえのないものがあることも
往き道=もどり道だよ
けっきょく、背中合わせだよ
落としたものを拾いながらもどろう
落としてもいいものはちゃんと捨てて往こう
喉が渇いたら砂漠のなかに井戸を探せばいい
砂の下には今まで埋めてきた宝物があるんだから
このいまを、いまの想いを
●たとえいま氷河期でも
無意識と闘うしかない…
無意識の凍てつく寒さでさえ
ブレーキをかけられないような
想いをもつことがあるんだと
「想い」しか闘うすべがない
どんなに地滑りしようと…
想いのなかで、時間が
自分が、他者が、世界が錯綜する
歴史はバカでかい総合病院
どんな症例があってもいいだろう
「進化」なんて嘘っぱちだけど
でも変化はあるんだから…
●砂漠
僕の存在が日々彼女を壊しているという
ばらばらに壊れるまで・・・
僕が彼女を壊すとき
壊したぶんだけ同時に僕も壊れている
僕であったと思われるものも
さらさらの砂に分解され、拡散していく
風紋なんて美ではない
飛び散った時間の粒子だ
風化され散乱した僕の粒子だ
堆積した砂は幻想なのか
砂に隠された井戸は幻想なのか
自我がブロックのように統合・配列されたものであるならば
僕の自我はばらばらに散乱していく砂袋のようなもの
どこに着地してもおかしくは無いんだ
あの砂丘も
この瓦礫の地も
いとおしい一本の花が咲くあの草原も
樹木の隙間から、葉を透かして
無秩序に差しこむ木洩れ日も
水面で干渉し合いつつ拡がり消滅する波紋も
防波堤で砕ける波も
そのいずれもが僕自身…
●回廊
人をいいなと思うとき
そうありたい自分をみている
人をいやだと思うとき
いやな自分をみている
ふと他者との空気が希薄になるとき
罪が自分に向かってくる
他者ははるか彼方の霞んだ存在
無意識に刻印された不安が
自己嫌悪の回廊をさまよっている
刷り込まれた自家中毒反応か?
僕のなかのパブロフの犬
いくら熱く煮たぎっていても
いくら時間を重ねても
地殻を形成できないマグマもある
受容されなかったことは非か?
受容されようとしなかったことは非か
僕の敵
それは僕自身だ
●ディズニーシーにいった友達が、「ファンタジーランドといいつつも、まったく人間が想像することを拒否してしまっている場所ですね。」と言っていました。
小さいころ大好きだったテレビの「ディズニーワールド」は宇宙、科学、歴史、生物など多方面にわたり僕に世界の拡がりを教えてくれたと思う。
中学生になって山口県の漁村で閉塞していた僕の記憶に残っているのは、「ディズニーワールド」「コンバット」「野生の王国」や映画「海底2万マイル」(ジュールベルヌの小説が授業中も隠れて読むほど大好きだった)を夢中になって見て胸をわくわくさせていた自分の姿です(それと、中2のときに白土三平の「ガロ」という漫画雑誌が創刊されて、内容は難しくて理解できなかったけど何故か好きで本屋のおばさんにガキのクセにというような怪訝な顔をされながらも買って読んでいた)…
「ディズニーワールド」「コンバット」「野生の王国」「ガロ」というキーワードで検索したら「白浜信義」がひっかかるかも、人から見ると、どっちかというと逸脱した生き方にみえるんだろうけど、もっとも意識下ではこの4つのキーワードに呪縛されているだけなんじゃないかなと悲しくなるね…
僕自身のなかでのこの「近代の夜明け」とともに「近代の呪縛」が始まったんだよね。
ディズニーランドができたとき、あんなもんで俺の内なる「ディズニーランド」が壊されてたまるかと思って、まだ行って観たことないんだけど、逆にその「想像力を奪う場所」行ったほうがいいのかもしれないね!?