風信 #02



「やっぱり一人がよろしい雑草」 山頭火

from 2002 note

「ある時期が来ないと見えないものもあるんだよ」
「恋のアナ・バナナ」という映画で主演のエドワード・ノートンがタクシーのなかで幼馴染の女の子に「ある時期が来ないと見えないものもあるんだよ」とボソッと言うのだけど、悲しいかな、僕なんていくら年をとっても見えないもののほうが多すぎる気がする。
人のことばは、心を表現しようとするが、心そのものじゃないし、そのうえひとり歩きさえする。
ことばを探そうとするばかりで、沈黙のことばに耐えられない。
ことばに頼りすぎるから、相手の心が見えなくなってしまう。
さらに諸々の「観念」のフィルターがことばのうえにかかってしまう。
ことばがあるから嘘をつく、ことばに追いかけられる羽目になる。

こんなときにいつも開く本
「春夏秋冬」 絵と文 香月泰男 谷川俊太郎編  新潮社
炭を混ぜた顔料で描かれた墨(暖かさを感じさせる包摂力のあるベタ黒)と、その上に点在するあざやかな赤・青・黄との調和はなぜか僕をホッとさせます。



「ここが居心地よく思うようになったらダメだよ」
映画「17歳のカルテ」を観ました。
施設に入所させられたボーダーライン症候群の主人公の生活を描いたものですが、よくある告発ものではなく、入所者の内面のドラマを自分自身との戦いとして描こうとしていて、変な思い入れが入ってなくてよかったと思います。入所するとき施設のケアワーカーが「ここが居心地よく思うようになったらダメだよ」という意味の言葉を言ったのが印象に残りました。
60年代末期から70年代初めって、時代自身もボーダーライン症状にかかっていて時代の揺らぎと個人の内面の揺らぎとが醸成されていたのかも知れないね。
「ここが居心地よく思うようになったらダメだよ」
いつも問いかける言葉だよね



テレテレ歩くの好きなんです
同じ道でもテレテレ歩いていると、森の木々たちからも、草の花ひとつからも、昨日から今日へ今日から明日へと時間が流れているのが、自然の蠕動が感じられて、地球も人類ももう老化過程にはいっているけど、ガンバって脈づいているよなと思えて気持ちが豊かになるんです。
何故か生活的な豊かさとは反比例しているけど…
自然を感じるゆとりを持つと、物質的な生活のゆとりがなくなる…



パソコン情話 なにを教えられるの?
パソコンを教えているぼくが言うのも変なんですけど、授業っていったい何なんだろうという気がしてるんです。講座でやっているのは、具体的な問題としての使い方を教えるということだけど、しかし現実に受講者の方に与えられるのは「誰だって使えるんだよという安心感」しかないんじゃないのかと。
それ以上のことを教えていると思うのは教えるほうの幻想なんじゃないかと思います。パソコンっていろいろ弄くってみて、わからないときにはHelpを参照し、いろいろもがいてみるという実践的な使い方を何回も何回も繰り返すなかで覚えていくという以外にコンピュータを覚える方法はないし、人に教えることがあるとすると、それは技術論ではなくこの経験値だと思います。自転車にちゃんと乗れるようになるためには何回か電信柱にぶつかったりしなきゃいけないんだから。
あとは個々人のなかで何をやりたいのかの方向性がちゃんと設定できれば自然展開するんじゃないかと、 そのなかで「アドバイスできることがあれば喜んでアドバイスします」的なのが理想だよなと思いながら、”操作は個別に覚えるんじゃなく全体的なイメージで関連付けて”、と今日もまたしつこくいっている自分がいる…



パソコン情話 記憶喪失
愛用のノートパソコンのディスプレイの画面が反射で見ずらくなるので、考え事しながら動かしていたらコンピュータを机から落としてしまった。
HP5ページぐらい更新してアップロードしようとしてたのに…
なんで、「考える」ってことは災いの基…
WINDOWSからアクセスしても、MSDOS、LINUXからアクセスしてもまったくハードディスクを認識しなくなった。もう、まったくお手上げ!
万策尽き、ターミナル状態のノートPCとの悲しいお別れをしようとして、ふと思いました。人間の記憶喪失はショック療法で直ることがある、しかも、きわめて原始的な方法で。
だったら・・・そう、もう1回同じ状況を再現すればいいんだ!
(修理したりする人間としては非常に恥ずかしいんだけど・・・落としました・・・
むかし、みんながテレビをたたいて直していた頃、ドライバー1本でテレビを修理する電気屋さんを見て大きくなったら技術者になりたいと思ったぼくとしては・・ほんと恥ずかしい話)。
ごめんごめんと謝りながらスイッチを入れると・・・、なんと NANTO なんと!
起動しました、ちゃんと復活!
記憶を取り戻した!!
今はこうして文字も入力できて問題なく動いていますが・・・
「記憶を喪失した」という記憶も無くなったのだろうか?



カンディンスキー展(東京近代美術館)
竹橋の東京近代美術館へ行く途中でユトリロ展(安田火災)にいってみたのですが、ユトリロの絵ってどんなに明るい色を使って描いてあるにもかかわらず、観ているのがつらくなります。 いたたまれないような重苦しさ、心苦しさを感じてしまい、画廊を一周しただけでぐったりしましたが、セザンヌとモネの絵があったので、それが口直しになり、気分がちょっと回復し楽になりました。 運が悪いことに常設のゴーギャンの絵がシカゴ美術館に貸し出されていて見ることが出来なかったのがとても残念。
実物の絵を見て、ユトリロって本当に心を病んでたんだなと思いました。 もし絵を描いてなかったら発狂してたんじゃないかと思えるぐらいです。

ユトリロの重さを引きずりながら東京近代美術館へはいったのですが、入館したとたんにその場の空気に触れて気分が晴れました。
なんて単純な自分なんだろう!と思わず絶句。
やはりカンディンスキーは最高。

以前から観たかった「青騎士」時代の版画、テンペラ技法、具象から抽象への移行期の「ムルナウの風景画」シリーズ、インプレッション(印象)シリーズ、 インプロビゼーション(即興)シリーズ、ロシア革命時のボルシェビキの圧政の中で よくこんな美しく自由な絵がかけるなと思うような「森の絵シリーズ」・・・ 最後はコンポジション(構成)シリーズで、やはりこれはもう、余計なものをそぎ落とされた色・線・面などの要素だけで構成されたひとつの世界・宇宙ともいえるように圧巻でした。

しかし個人的な趣味からいえば、コンポジションシリーズは「抽象化」 > 「論理化」 されすぎて、意味・論理を観るものに強制してくるところがあって、堅苦しさを感じるときがありますが、なぜかそれでも好きです。

やはり、一番好きなのは、感動したのは、「ムルナウの風景画」シリーズ、インプレッション(印象)シリーズの時期の、具象から抽象への移行期の絵にみられる自由な色彩の組み合わせ・ハーモニーです。 そのまま絵の中に入って色彩の海のなかで泳げるんじゃないかと思えるぐらいです。実物を見てさらに好きになりました。

 

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