風信 10
ひとりの火の燃えさかりゆくを (山頭火)
from 2006 note
●想いをひとりぼっちの部屋に隔離してみる。
過剰は身体性のほうへするりと流れ込んでしまう。
想いは発熱剤だけでなく清涼剤にもなってるんだね
自分の暑さで自分の水脈を枯らしてるだけなのかも知れないし
燃えながら、くすんでいく炭火かもしれない
●往って他者に出会い
還って自己に出会う
往って自分に出会い
還って他者に出会う
人が他者を想うこと…
他者のことをどれだけ想っているかということより
他者にとって自分はなんだろうという問いかけの方が
大事なことなんじゃないだろうか
「他者を想うこと」は「他者の拘束」を構造的に内包しているのかもしれない
この還り道で自分に出会うことによってしか
自分を相対化していくこと、 「縛り」の構造を解体していくことができないんじゃないかと思う
「他者を想う自分」を想っているだけで肝心の他者はもうそこにいない…
それはとてつもなく怖いこと辛いこと…
自分を肯定することと自分を否定することが同時進行であるならば…
自分の想いをそぎ落としていくことの折り合いは何処でつけるんだろうか?
でも、もっと怖いこと辛いこと…
他者の想いによって拘束されること、
他者への想いで自己拘束すること
山に高く登れば登るだけ谷は深くなる
登る勇気よりも谷底を見つめる勇気
降りる勇気のほうがもっと必要なんだろう…
●部屋を掃除しててふっと思った
フロイト先生は家のなかを
すみからすみまで掃除し
各部屋を移動できる廊下もつくったけど
それは互いに「固定されている空間」を
整理しただけじゃないかと…
家のドアが、各部屋のドアが
閉じてることが問題なんだ
いくら整理整頓しようと閉じた空間は
所詮自己を囲い込む柵でしかないんだ
「在る」って、自然環境と同じで
森がり、崖があり、洞穴があり
野っ原があり、沼があり、風があり
全部含めて仕切りのない空間なんだ
いわばスポットライト的にお日様があたっている場所、それが自己・意識なんだ
お日様があたっていない場所、それが無意識
家のような重層的な建築物じゃなくて自然風景的なさまざまな場所なんだ
風の吹き抜ける草原もあれば、干からびた砂漠、深い深い海をあるんだよ
柵なんかつくらなくていい
いま在る場所でいい
いろんな風景がみえるほうがいい
いろんな場所に行けるほうがいい
風が吹きぬけるほうがいい